「奇蹟」の人びと

大正元年(1912)に広津和郎、葛西善蔵らによって創刊された同人誌「奇蹟」の同人たちの私小説を精選。
絶え間なく酒に酔い、自己反省に胸を圧されて苦しむ日々。
質入れで当面を凌ぎ、一人ぽっちの不幸、寂びしさ、徒労、絶望を噛みしめる。
皆な貧しく、みじめで、痛々しく、いじけていた。
いったい俺の生活は、どこが間違って、こんな風になっちゃったのか……。
友だちを出汁《だし》に書き、絶交を繰り返しながらも、しかし熱情は棄てなかった。
100年以上前の、伝説の同人誌の、同人たちの関係性を現す10篇。


■収録作品/初出/略歴

光用穆「旅立ちの日」/「奇蹟」大正2年(1913)四月号/みつも ちきよし 1887―1943一/新潟県生まれ。明治42年(1909)、早稲田大学英文科を卒業。同郷の縁で相馬御風の家に寄寓する。明治45年、石川新聞社長秘書となり金沢へ移住。「奇蹟」同人として大正元年(1912)以降、「クリスマスの夜」「高台」「メリーゴーラウンド」「旅立ちの日」などを執筆した。大正3年から6年頃にかけて、「創造」「早稲田文学」「洪水以後」「黒瞳」に「夜の獣」「人魚」「百足」「猫」と発表したが、その後は創作から遠ざかった。著書に『現代美術界総覧』(1918)、訳書にウェルス『宇宙戦争』(1915)がある。

谷崎精二「友だち」/「新公論」大正6年(1917)十月号/たにざき せいじ 1890―1971/東京日本橋生まれ。兄は谷崎潤一郎。家運の傾きから発電所に勤務しつつ苦学、早稲田大学英文科へ進み、大正2年(1913)に卒業。卒業後は「早稲田文学」を中心に発表、『地に頰つけて』で注目される。大正10年、片上伸の推挙により早大文学部の講師となり、昭和6年(1931)に教授となる。第三次「早稲田文学」を二十年にわたり主宰。創作のほか特にポーの翻訳で知られ、『谷崎精二選集』『ポオ小説全集』などがある。

宮地嘉六「甕」/「文章世界」大正8年(1919)二月号/みやち かろく 1884―1958/佐賀県生まれ。貧困のため小学校を中退し、仕立屋の丁稚を経て十二歳で佐世保海軍工廠の見習工となる。十六歳から三十一歳まで兵役を挟み旋盤工、旋盤師として約十年間を呉海軍工廠で、それ以外は神戸、長崎、東京の工場を転々とした。二度目の上京の折に舟木重雄と知り合い、親しく往来するようになる。大正3年(1914)の三度目の上京後は、堺利彦を知り、売文社、廿世紀、新公論などに勤めながら文筆に専念、職工時代を材に「煤煙の匂ひ」「或る職工の手記」「放浪者富蔵」などを発表して労働文学の形成期にも寄与した。昭和27年(1952)に晩年の代表作「老残」を発表。『宮地嘉六著作集』など。

相馬泰三「B――軒事件」/「太陽」大正9年(1920)一月号/そうま たいぞう 1885―1952/新潟県生まれ。本名は退蔵。明治44年(1911)、早稲田大学英文科中退。在学中、「奇蹟」の前身ともいえる同人の集い「稲風会」に光用穆、舟木重雄らとともに参加した。萬朝報社で「婦人評論」の記者となり、大正2年(1913)頃より植竹書院で翻訳の仕事に従事する。「田舎医師の子」(1914)で注目され、「早稲田文学」「新潮」「文藝春秋」などに作品を発表。代表作の長篇『荊棘の路』(新潮社 1918)では、仲間の作家を過度に脚色して描いたため反発を招いた。次第に創作に行き詰まり、文壇から距離を置くようになる。のち越後に戻って農民運動に関わり、晩年は紙芝居制作に従事した。『新選相馬泰三集』など。

廣津和郎「針」/「解放」大正9年(1920)一月号/ひろつ かずお 1891―1968/東京牛込矢来町生まれ。小説家・広津柳浪の次男。大正2年(1913)、早稲田大学英文科卒業。大正元年に舟木重雄、峯岸幸作らと同人誌「奇蹟」を創刊。大学卒業後も翻訳や執筆などで一家を支える傍ら創作にも励み、処女作「神経病時代」(1917)を「中央公論」に発表した。1920年代からは結婚生活や家族問題、関東大震災、出版事業の失敗、さらに愛人問題など困難が続くも、文筆家として精力的な仕事をした。戦後は熱海に移住。「異邦人論争」(1951)で論壇の注目を集める。また、松川事件の再審無罪を訴える活動に尽力し、昭和36年(1961)の全員無罪判決に立ち会った。『広津和郎全集』など。

葛西善蔵「遁走」・「湖畔手記」/「新小説」大正7年(1918)九月号・「改造」大正13年(1924)十一月号/かさい ぜんぞう 1887―1928/青森県生まれ。貧しい幼少期を送り、各地を転々としながら独学で文学に親しむ。明治38年(1905)初上京、哲学館大学(現東洋大学)に学ぶが中退。徳田秋声に師事し、相馬御風を紹介されたことで光用穆と知り合う。大正元年(1912)、舟木重雄、広津和郎、相馬泰三らと同人雑誌「奇蹟」を創刊し、処女作「哀しき父」を発表。のち「雪をんな」「子をつれて」などを発表し、自己の窮乏や家庭的破綻を赤裸々に描く私小説作家として注目される。以後も流浪と病苦、家庭不和と貧困の中で創作を続け、「椎の若葉」「湖畔手記」などの作品を残した。『葛西善藏全集』など。

松本恭三「欺く」/「婦人公論」大正13年(1924)十月号/まつもと きょうぞう 1885―1924/広島県生まれ。明治43年(1910)、早稲田大学商科卒業。卒業後は鉄道院に勤務するが短期間で退職、帰郷後は尾道市役所にも勤めた。大正8年(1919)7月に再び上京。翌大正9年末から10年頃にかけて、「解放」「自由評論」「国本」などに「示談」「宿直の夜」「鼠」「良人」を発表した。

峯岸幸作「月光と青年」/「奇蹟」大正2年(1913)三月号/みねぎし こうさく 1889―1919/群馬県生まれ。大正2年(1913)、早稲田大学英文科を卒業。明治45年(1912)、「早稲田文学」に「老犬」を、大正元年(同)から翌年にかけ同人誌「奇蹟」において「日没」「血」「たそがれ」「月光と青年」などを発表する。また大正2年には相馬泰三の後を継ぎ「婦人評論」の編集に携わった。のち名古屋日日新聞に入り、さらに金沢の石川毎日新聞に主筆として招かれるが、「デモクラシー」を巡る筆禍事件により投獄される。出獄後、持病の心臓弁膜症が悪化し、程なく逝去した。「婦人評論」に「ショウの結婚論」「職業的婦人」などを執筆、ほか峰岸孝作名義でモーパッサン「悔恨」訳がある。

舟木重雄「山を仰ぐ」 /『舟木重雄遺稿集』昭和29年(1954)6月28日/ふなき しげお 1884―1951/東京芝(現港区)生まれ。ドイツ文学者で小説家の舟木重信の兄。早稲田大学文学部英文科に入学し、のち哲学科に転じて大正2年(1913)に卒業。中学時代から友人と回覧雑誌、同人誌を作るなど早くから文筆に親しみ、投稿も盛んに行なった。大正元年には光用穆、相馬泰三、葛西善蔵、広津和郎らと同人誌「奇蹟」を創刊。その中心人物として同誌に「馬車」「乳母の死」「ある青年の死」を発表した。大正15年、友人志賀直哉の誘いもあり奈良へ移住。中学時代からの友人九里四郎をはじめ、武者小路実篤、瀧井孝作らとも交わりを深める。没後、志賀直哉が発行人となり『舟木重雄遺稿集』が刊行された。

あっちゃん

1960年代後半から1970年代前半にかけて、「ファイトだ‼ピュー太」「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」『新八犬伝』等々、夢中になった番組のこと、ADHD、好みの女子、小児性欲の記憶を、生まれ育った町、茨城・水海道と埼玉・越谷を背景にたどる自伝の試み。
私は自分の人生の半分以上はテレビだった人間だから、それをあえて書くことにする。書き下ろし長篇私小説。

蛍日和

出会い、引っ越し、再婚、断煙、禁断症状、不安神経症、ノイローゼ、睡眠障害、鬱、妻の事故……その屈託に寄り添った妻との十五年。4篇収録

廊下で蛍とすれ違うことがある。といっても大抵はトイレから出て来た蛍の脇を私が通るのだが、狭いから、蛍は片側の壁に、両手をあげてピタッと張り付き、「あじのひらきッ」と言うのである。


【収録作】
蛍日和
幻肢痛
幕見席
村上春樹になりたい

自滅

君も俺の黒い底
畜生の根性 火事場泥棒 人間の本当とは
帰ってきた私小説

「私は皆ながいいなら……、大丈夫です」「そうか、では彼にはよく反省して貰って、この話し合いはこれで終りということでいいね。サア君、皆なへ謝り給え!」「迷惑かけて、真実(ほんと)にすみませんでした!」「君、俺にじゃなくて彼女達に謝るんだぞ!」「真実(ほんと)に! ごめん! 君達! ごめんよ!」「ウム、そうだ! ほら、若者らしく握手して、仲直りし給え!」……そんな中、一人異才(いさい)な者がこの即興劇には混じって居た、時計は八時を指した、無論それは亜由美であった。――本文より

あとがきよりこれまでの人生をそろそろ勘定していかなければならない、そんな気持が私にこれらを書かせた。またこうしたものを書くからには、その種の嘘偽りを禁じることを肝に銘じて、血でもって書く作家の本分として取り組んだ。結果それは私の家族を、友を、愛する人達を、傷つけることになっただろうか。許してくれというほかにない。――「あとがき」より